Historia バスクの歴史 1 |
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バスク人の祖先はネアンデルタール人と伝えられています。インド・ヨーロッパ語族のヨー ロッパ侵入以前の旧石器時代後期(約1万年~3万年前)にピレネー山麓に定住していた。 新石器時代(B.C.3500~B.C.2000年頃)になると、狩猟をやめて牛・豚・羊の飼育と漁労を 始めます。このあと、青銅器時代・鉄器時代を経て歴史時代に入ります。 B.C.200年頃、ローマ帝国はカルタゴとの約200年に亘る戦闘の末、イベリア半島全体を征服 します。しかし、バスク人はローマ人の支配に対し抵抗を続け、最後まで制圧されませんで した。そのためバスク人は独自の言語・文化を保持することが出 来たのです。 「バスク」という総称はローマ人がB.C.100年頃「バスコニア」(ラテン語のVasconia)と 呼んでいたことに由来するもので、バスク人は自らを「エウスカルドゥナ ク」(Euskaldunak=バスク語を話す人々)と呼んでいました。 現在使われている「エウスカディ」(Euskadi)は19世紀後半の民族運動の開始とともに登 場した言葉です。 5世紀に入ると、イベリア半島に西ゴート族が侵入してきます。476年には西ローマ帝国 が崩壊し、西ゴート王国が成立します。しかし711年、イスラム勢力がイベリア半島に侵 入。西ゴート王国の支配機構はたちまち崩壊してしまい、イスラム勢力がアラバまで及びま す。これに対抗して、今度はフランク王国がイベリア半島に侵攻します。 778年、フランク王国のカール大帝軍はアンダルシア遠征の帰途、ピレネー山脈の麓のロ ンセスバリエスでバスク人に襲撃されて敗走しました。(ロンセスバリエスの戦い)その3 年後、今度は北部山岳地帯に住むバスク人がカール大帝との戦いに敗れ、兵士は皆殺しにさ れ生き残った者(婦女・子供)は連れ去られました。一方、南部山岳地帯に住むバスク人と ピレネー山脈北部の人々はカール大帝に抵抗するための強力な機関を組織しました。これは 9世紀のパンプローナ王国の誕生につながり、また10世紀には分裂してナバラ王国となり ました。 パンプローナ王国が誕生した頃、バスク王族出身のサンチョ・ミタラがカール大帝の支配か ら独立します。このバスク公爵領は10世紀に、全バスクの主ギジェルモ・サンチョの時に全 盛期を迎えます。やがてサンチョ大王は、カスティージャ、アラバ、ビスカヤ、ギプスコ ア、レオン、アラゴンに至る広大な地域にナバラ王国の宗主権を及ぼし、サンチョ・ガルセ ス3世の時代にスペインキリスト教勢力の中で覇権を握りました。 ナバラはキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動、711~1492年)の実質的端緒を開 いた土地で、ナバラの剛勇サンチョ7世は、イベリア半島からイスラム教徒軍を追放する きっかけとなったラス・ナーバス・デ・トロサの戦いでキリスト教徒軍を勝利に導いた人物 です。 しかし、このあとナバラ王国は国力を失っていきます。サンチョ7世の死後、王位継承者が いなくて、そのうえペストの流行により人口が減少してしまったのです。そして、ナバラ王 国は衰退しフランスに統合され実質的に消滅してしまいました。 14世紀後半になると、バスクはカスティージャ王国に併合されます。それと同時に、このと き初めてバスク地方北部からバスク民族主義の表明と独自の権利奪回の動きが表面化したの です。 また18世紀になると、ギプスコアではマヌエル・デ・ララメンディが伝統・文化・言語など民 族的概念に基づくバスク国の思想を広め、スペインへの統合に反対する立場を貫きました。 <カルリスタ戦争> スペイン国王フェルナンド7世(1784~1833)には後継ぎとなる子がいなかったため、彼の 後継者はバスク地方を拠点とする弟のカルロス(1788~1855)になるだろうと考えられてい ました。しかし、フェルナンド7世は晩年、ナポリ出身の妻マリア・クリスティーナとの間 にイサベルが誕生したため、1713年以来続いてきたブルボン家の女子継承禁止令を廃止し、 イサベルに継承権を譲ることにしました。そのためカルロスは王位継承権を失い、1833年の 兄フェルナンド7世の死をきっかけに、王位継承権を主張してカルロス5世を名乗り、武装 蜂起しました。彼を擁立しようとした人々を「カルリスタ」と呼び、この戦争をカルリスタ 戦争(1833~39)といいます。カルリスタはバスクの自由主義を守るという共通の意識に よって高まり、法律における平等と社会正義を願って戦いました。 スペイン北部を中心に集結した旧体制を支持するカルリスタ側と、マドリッドを中心とする 自由主義勢力が集結したイサベル側によるこの戦いは、カルリスタの敗北で終わりを迎えま した。イサベル側の中央政府は戦争中から自由主義改革や土地改革を行っていた結果、近代 的ブルジョワの発想に基づく私有権概念が導入され、永代所有財産制が廃止されるなど、農 業を主体とするバスク地方では大きな影響を受け、1841年にはバスク地方の地域特別法が廃 止されるに至りました。 この戦争の敗北により、立法権を持つ工業地域であるバスクへの課税が盛り込まれ、バスク 人の自由の縮小と農民集団の無産階級への移行を目的とするベンガラ協定が結ばれ、カルロ スは亡命しました。 <ナショナリズムの高揚> 王政復古を実施した諸党派は自由主義的立憲君主体制を築き、彼らは新体制構築の他に国家 の統一主義を考えていました。そして1841年にバスク地方の地域特別法が廃止されたことに より、バスクはスペイン中央政府の一行政単位となってしまいました。 その後バスク地方は中央政府下で、従来から蓄積されたバスクの金融・商業資本を製鉄に投 資し、隣接するアストゥリアス地方の石炭と結合して、バスク地方はイベリア半島で屈指の 重工業地帯へと成長していきました。しかし、工業化とともに旧カスティージャ、ガリシ ア、アンダルシアなどからの移民労働者が大量移入し、伝統的なバスク社会は変化してしま います。とくにビスカヤへの移入が多く、1900年代に入ると首都ビルバオでは人口の47.2% もの人がバスク地方以外からの移住者によって占められるほどでした。 こうなると、伝統的なバスク社会や生活は破壊され、バスクの人々は自らの文化や言語の消滅の危機感に駆られました。そして、彼らはバスク語とバスク文化の保持、地方自治権をス ローガンに「バスク・ナショナリズムの父」といわれるサビノ・アラナ・ゴイリを中心にナ ショナリズム運動を開始することになるのです・・・ ここまでの参考:「バスク民族の抵抗/大泉光一 著」 ★この歴史の項はblog「Zazpiak Bat...4+3=1?」の筆者、remona121さんの記事を許可を得て掲載しています。 |
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